どーも、はじめまして!

金曜Nの@未成年な僕です。三回目のレッスンが迫っております中、みなさんいかがお過ごしでしょうか?
 早速ですが、現在僕が読んでいるドストエフスキーの小説「未成年」において少々興味深い拾いものをしたので、ご拝読いただければと思います。
 初回の書き込みからレッスン内容を離れるといういささか暴挙じみた行為・・・どうぞお許しください・・・m(_ _)m
 この小説は私生児である主人公のアルカージイ青年(年は数えで二十一なんです。ですから年齢上は未成年ではないのです)が離れて暮らしていた親元を訪ね、そこで起こった出来事を半年後の自身が回想記述していくという形式になっています。
 そんな小説中、僕の心のサハラ砂漠に恵みの雨ならぬ怒涛の瀑布をもたらしたのが、アルカージイの思想が描いた「理想」なのです。彼はまだ学生の時分にある「理想」を抱き始め、それを遂行するためにその後の人生を費やそうと決意します。
 さて、その「理想」とは?
「私の理想は、───隅っこである」
「私の理想は、ほかでもない、───ロスチャイルドになることである」
・・・ぽつねんとたたずむ世界一の富豪・・・どういうこと?
 アルカージイ曰く、思うことの百分の一も言い表すことのできないものを説明すると、こんな瑣末な言語になってしまうのだそうです(理解を求める方は実際に読んでいただけたらありがたいです)
 しかし、注目すべきは彼がこの「理想」を描き始めた時から三年の間、数々の試行錯誤の上に遂行への準備を怠らなかったということ。「わたしの目的は数学的に保証されている」なんてこともいっちゃってます。
 ちなみに時は帝政末期のロシア。社会主義、共同意識を持った若者が世に溢れていて、アルカージイのような独自の思想をもつのは失笑のみならず恥ずべき行為だ。なんて気風もあり、つまりはこの考えは一般的には間違っていると目されているそうで・・・
 間違っていると目されていることに対して、その価値を転換させて正しいこととして実証しようと躍起になっているアルカージイ・・・はたして彼は自分の理想を成し遂げられるのだろうか・・・それは読んでのお楽しみ。
 さて、この「理想」を「表現」に置き換えてみたら・・・「表現」の価値がコペルニクス的回転によって今まで間違っていると目されてきたことが主流となったらどうだろう。それこそ表現革命ジャン!なんていうことを考えちゃいまして、現在の僕のおかれている環境を顧みてシンパシーを感じずにはいられなかったわけです。
 もちろんそこには実証という大きな壁が立ちはだかっているわけですが・・・
 新しいものを創る、または間違っているという見方を転換させる。そしてそれを実証していくのが未成年なればこそ。
 そういう意味で僕も未成年であり続けたい。
 曰く、持久。曰く、不屈。自己の信念を貫く所存です。
 というわけで長くなっちゃってすいませんーm(_ _)m
 講師、生徒の皆々様今後ともお手柔らかにお願いいたします。
では~

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です