ナレーター専門マネージャー狩野貴子,営業,講師,アトゥ,スクールバーズ,ナレーション専門スクール,猪鹿蝶

 
入社以来言われ続けた言葉が彼女をつき動かしていた。
『女に何ができる』
絶対に、負けたくなかった。

マネージャー狩野貴子
『貴子のティアーズ』


「私には守るものも、止める人もなかったから」


 
「私には守るものも、止める人もなかったから。だから、生き抜くために独立しなければと思っていたし、やり抜くこともできたんだと思う」
 
映画に注いだ青春を捨て、ナレーターマネージメント界へ。
大手事務所に勤めた後、2004年にナレーター事務所「アトゥプロダクション」を設立。
今年2009年はベルベットオフィスと組み、新しい試み『キャスティングプロジェクト猪鹿蝶』を立ち上げた。
 
今なお歩みをとめることはない。
彼女のそばには常に"どう生き抜いていくか"があるからだ。
ナレーターとともに現場へ歩き、交渉に望む全力を尽くす姿は「強きマネージャー」。
その強さの源を問うと。「負けたくないから」と短く答えた。
 
マネージャー狩野貴子。彼女が戦う「inside OUT」
 


入社以来言われ続けた言葉が彼女をつき動かしていた。「女に何ができる」。


 
ナレーター専門マネージャー狩野貴子,営業,講師,アトゥ,スクールバーズ,ナレーション専門スクール,猪鹿蝶
始まりは映画だった。『陽炎座』などで独自の映像美を追求する映画監督鈴木清順に感銘をうけたのだという。学生時代にいくつかの表現活動に触れてみた後「映画監督になりたい」と進路を映像製作へと決めた。そしてテレビ制作会社へ。

新人ADの過酷な労働環境は今も昔も変わらない。

「風呂も入れないで毎日ジャージだった。当時のADはほんっとにゴミ扱いされたものよ。特に当時では珍しい”女性”だったから…」

当時のテレビドラマ界は、映画を食い詰めテレビに流れてきたスタッフが少なくなかった。ADたち力の弱いものは彼らのはけ口にされた。
「女の作ったものなんか、信用できるか」
狩野が準備した撮影用機材をみてカメラマンは吐き捨てた。照明に本気で蹴られたこともあったという。

それでも狩野は仕事のわずかな隙間に企画書を持ち込み、20代前半でキー局深夜番組のディレクターデビューを果たす。
それは『女性ディレクターたちが”制服””SM””マッチョ”など毎回それぞれのテーマに沿って、男性をヌードにしていく』という衝撃的な企画。

入社以来言われ続けた言葉が彼女をつき動かしていた。
「女に何ができる」
絶対に、負けたくなかった。
 
番組は男女問わず視聴者の支持を得た。報われた瞬間だった。
(余談だが、某大物プロデューサーが近年この企画と似た内容をネット番組で仕掛け、好評を得ている)
 


映画と決別した限りは、マネージャーで人生を賭けてみようと思った


 
その後も自主制作で撮りまくり、イベントや展示会も仕掛け、青春を映画に注いだ。だがある日、映画と決別を決めた。

「出し尽くしちゃった。なのに自己満足にすぎなかったんだよね」
カメラを手放しても、クリエイティブではない仕事にはつけなかった。
 
燃え尽きた狩野に朗報があった。
とある大手声事務所が「制作」部門をたちあげるという。
映像に関わっていたかった狩野は、違和感なく事務所を訪ねることにした。その頃の芸能事務所は、自分たちが持つタレントを使って制作部門を立ち上げることが流行だったからだ。

「でも、よく聴いてみたらラジオドラマ制作部門を募集してたらしくて(笑)私は”映像”を志してたから、ラジオの制作ってわかってたら行かなかったのになーっと思ってたら、面接でなぜかいきなり”マネージャーに向いてるよ”って言われたんだよね(笑)当時はマネージャーもナレーターもよくわからなかったけど、映画と決別した限りは、マネージャーで人生を賭けてみようと思った。やるなら1番になろうと思ったのよ」

狩野はその日はじめてスーツを買った。
 


じゃあまずは売り上げあげてみせようじゃないか



ナレーター専門マネージャー狩野貴子,営業,講師,アトゥ,スクールバーズ,ナレーション専門スクール,猪鹿蝶
入社の翌日。狩野はすでに辞表を提出しようとしていた!
 
マネージャーとして入社したのに、同期数名の中で彼女だけが”デスク”、いわゆる庶務に配属されたからだ。理由は「女だし、別にいいでしょ」。
頭にきて転職雑誌を買い漁った。

だが実はこれも幸運だった。
後年このデスク経験がマネージャーとしてのシステム作りの大事な礎となっている。
必然性あるスケジューリング、見えざる戦いが繰り広げられる電話応対…日の当たらない部分だが、ビジネス展開をしていく上では実は欠かせない重要なポイントだ。
導かれるようにして狩野のマネージャー人生が静かに始まりつつあった。

1年がたち、自らマネージャーへの移動を志願。
渋々受けいれられたが、すでに人員は足りており、テレビ関係の仕事に狩野の入る隙間はなかったという。

だがここでも狩野は、逆に”燃えた”。

「その頃の声事務所のマネージャーといえば、ほとんどの人がマネージメントではなくて『営業マン』だったんだよね。ただ電話をもらって、売り上げをあげていくだけが目的の人が多かった。でもホントはね、そうなっちゃう気持もわからなくもないんだ。会社からは『売り上げあげろ』しか言われず、プレイヤーからは『なんで仕事とってこないんだ』の毎日。それでいて花形プレイヤーに比べたら部長クラスの収入だってたかが知れたものだった。実際若いマネージャーたちには夢も希望もなかったのよ。
それでも私は、右も左もわからなったし、すぐに”熱く”なっちゃうタチだし(笑)『じゃあまずは売り上げあげてみせようじゃないか』と、燃えました」

古参マネージャーが避けたがるCSやVPを中心に、新規開拓のため飛び込みを繰り返した。この苦しい状況の中頑張り続けた経験もまた、マネージャーとしての強さを形作っていく。
 

それまでのスーツは「マネージャーの心得」と一緒に捨てた


 
そんなある日、先輩マネージャーが突然辞職する。狩野が後任に選ばれ、念願のテレビ局を担当となった。事情で引き継ぎもない形でのテレビ担当への交代だったが、同僚の男たちに手を差し伸べてくれる者はいなかった。弱音をはく事はなかったが本音は心細かった。
 
「急に現場に放り込まれてせっかくのチャンスなのにノウハウが一つもなかった。でもどうにかしなきゃと。落ち込んだりするヒマない。考え抜いて”顔を覚えてもらうしかない!”と…」
 
髪をカラフルに染め、服も奇抜なものにチェンジ、アクセサリーで鮮やかな装いにした。
それまでのスーツは「マネージャーの心得」と一緒に捨てた。
マネージャーの心得とは入社してすぐ研修で叩き込まれた「”前に出ない”美学」のことだ。「マネージャーは壁の花としてひっそりとしているべき」といった古い芸能界をひきづった考えだった。
 
だが狩野は紫、青、緑、赤、ド金髪と、ほとんどの色に挑戦、声業界ではありえない華やかさになっていく。
 
「教わった、マネージャーの心得について私はずっと反発があったのね。”前に出ない”ことが一つの方法論としてあるのはわかってる。でも古き良き美学で”いま”の業界で通用するんだろうか?マネージャーがプレイヤーの「ただの大人しい付き人」になったところで、逆にプレイヤーの価値を逆に低くみられてしまうリスクだってあった。マネージャーが取引先ときちんと対峙していない限り交渉でまともに戦えない。なのに会社からはつきあげられ、プレイヤーには恨まれ…これでは若いマネージャーたちが機械的に仕事をこなすようになっていくことも当たり前じゃないかという怒りがあった。
私は『この”悲劇”というか”喜劇”を、当のマネージャーたちが改善しようとしていない』ことにも強い違和感があった。だから事務所からの総スカン覚悟で『自分の方法』を模索しようと思った」
 


マネージャーもプレイヤーと同じだ。常に「何を選ぶか?」を迫られている


 
ナレーター専門マネージャー狩野貴子,営業,講師,アトゥ,スクールバーズ,ナレーション専門スクール,猪鹿蝶
緑の頭をして営業に回る女性の姿はテレビマンたちの興味をすぐひいた。勢いが周囲を巻き込む渦をつくっていくように、狩野を応援してくれるスタッフたちが増えていく。向こうから声をかけてもらいテレビ番組を少しづつゲットしていく。

だが出る杭は打たれるのも常。実績とともに、事務所では狩野批判が高まっていった。ある日狩野は社長室に呼び出された。「だいたいなんだその頭は。似合うと思っているのか」社長室で一喝された。
狩野はすかさず「似合ってますよ」と言い放った。
 
後日談だが、狩野の好調ぶりを見て、後輩たちに髪を染めることが流行した。
みな、同じく社長室に呼び出され「似合うと思っているのか」と叱責された。
ただ後追いをしていただけの者は「いやあ、どうでしょう、あはは…」とはぐらかし、翌日には髪を切った。
 
マネージャーもプレイヤーと同じだ。常に「何を選ぶか?」を迫られている。
実は選ぶ事とは、他を捨てる事でもある。一瞬一瞬の判断が人生を決めていく。エッジに立って自ら選択していかなければこの業界では生き残れない。髪を切った者は、結果として何を手にいれ、何を捨ててしまったのだろうか。彼らのその後の行方を知るものはいない。
 

組織に頼らず、すぐに自分の足で立っていっちゃう奴だろうと思ってた


 
マネージャー5年目。狩野は売り上げトップをとった。
だが特別な思いはなかったという。
「だってワタシ、頑張ったもん」と、”きっぱり”胸を張った。
 
成績優秀者に与えられる「社長賞」を受賞。ちなみにこの社長賞自体が後輩たちのモチベーションのために狩野の働きかけで設立されたものだ。プレーヤーを陰で支えているマネージャーの仕事ぶりを分かってもらいたかった。新しいマネージメントを模索するためにも。
 
2度目の社長賞を受賞したあと、狩野は事務所を辞める決意をする。
 
「やれることはやったし、もう学ぶことはなくなったなと感じてしまった。それでも私の人生はまだまだ全然安定していなかった。進むしかなかった」

過去のことに構っているヒマはなかった。女一人生きていく覚悟だった。といっても事務所を辞め何をするかは決っていなかった。違う職種にしようと迷っていたくらいだった。
 


私には守るものも、止める人もなかったから。


 
2004年、狩野はナレーター事務所「アトゥプロダクション」を設立。再び自分を「右も左もわからない」環境に追い込み、人生に挑む。

ほとんど心境を語ることはなかった彼女が長い沈黙のあと語った。
 
「独立を決めた時はね、すごく迷ったし、怖かった。でもね私には守るものも、止める人もなかったから。だから、生き抜くために独立しなければと思っていたし、やり抜くこともできたんだと思う」インタビュー中はじめて遠くをみた。
 
ライバルマネージャーでもあるベルベットオフィス義村が当時の狩野を評して語った。
『私が別の大手事務所でマネージャーをやっていた頃から狩野のことは知ってた。いつ、どこに行っても現場で見かけた。奇抜なファッションは考え抜いてのことだろうし、やり切る覚悟を現してたね。当時の声マネージメント界にはそんなヤツいなかったな。そして…組織に頼らず、すぐに自分の足で立つ奴だろうと思っていた。ちょっと話しただけで新しい声のマネジャー像を考えているのが分かったからね』
 
設立後すぐ、フリーになろうとしていたベテランプレイヤーが「狩野なら信頼できる」として、アトゥに参加してくれた。若手ナレーターのリーダー的存在、佐藤賢治も参加を表明。思わず感極まった。
 
同じく、設立時からアトゥに参加しているナレーター鈴木省吾はこう語った。
 
「”こんな良いオンナ”に連れられて現場にいってさ、もちろん現場に着いた時には自由にやれる環境をちゃんと整えてもらっててさ、そんなすげえ人と、今こうして仕事できてる俺って、どんだけ回りから恰好良く見えてるだろう、って」
 
アトゥ設立から5年。新しいマネージメントはまだ試行錯誤の中にある。
狩野はいままで「営業専用の靴」を何足はきつぶしたか知れない。そこまで頑張ってもまだ、プレーヤーがマネージメントを理解してくれていないと思える事にぶつかる。そのたびに心の深い部分で傷ついてきた。真夜中に一人、黙々と仕事をしている時にふと涙がこぼれるときもある。
 


声をきいて”ビビッと来る”ことがある。そんな時『良い仕事と出会わせたいな』と思う


 

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そんな彼女を救ってくれたのは、ついてきてくれる事務所のナレーターたちやバーズの生徒たちだった。マネージャーに取っての原動力はプレーヤーたちからの信頼なのだから。

「プレーヤーたちが成長するために何をすればいいか」
それが彼女のマネージメントの根源なのだ。
 
今年2009年。
狩野の発案からキャスティングプロジェクト『猪鹿蝶』は生まれた。
狩野はリーダーとして、新しい企画に連日パワーを注いでいる。
 
「知らないプレイヤーと会うのは、ワクワクするんですね。猪鹿蝶のボイスサンプルでもスクールバーズでも声をきいて”ビビッと来る”ことがたくさんある。そんな時『良い仕事と出会わせたいなと思う。一段上の仕事にね』そしてキャスティングが上手くハマって、スタッフさんたちから感謝された時が、私の『よっしゃ!』なの」
 
最強のマネージャーを目指し、挑み続ける女性がいる。
マネージャー狩野貴子。
今日もプレーヤーたちの未来のために歩いている。
 

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この文章は2009年10月08日配信のナレーターメルマガを転載したものです。

 
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