ナレーター専門マネージャー義村透,営業,講師,ベルベットオフィス,スクールバーズ,ナレーション専門スクール,猪鹿蝶,GALAC,

<前回までは>
「混在する”ナレーション”の定義」として、旧来ナレーターという呼称はテレビやVP(ビデオパッケージ)など”映像向けの読み手”が使っていた。が、近年イベントや朗読などでもナレーターを称するようになり、教育から売り込みまで、ナレーターたち自身が混乱してしまっている現状を明らかにした。
 
さらに「アナウンス」と「語り」のふたつの喋りの技術から進化させてきたナレーションのそれぞれの問題点として、「アナウンス」に言及。変化する時代にあって迷走しつつある「”正しい”日本語の技術論」をめぐって「やがては初音ミクがアナウンスする日も近い」と結んだのだった。
 
声業界に新人を生みだすための新しい仕組み「スクール&スタジオバーズ」「猪鹿蝶」を創り出し、才能を世に送り出し続ける義村が叫ぶ”時代”とは。
 
今回の提言は「語り」の視点から。

[ vol.3 テレビは本来の毒を忘れるな ]

『時代と呼吸するナレーターの育成・採用・生かし方とは』中編

(新時代メディア批評誌「GALAC」2012年10月号掲載)


声優教育の二つのガラパゴス



もう一つの流れは、声優による「語り」である。物語り、すなわちドラマを表出することはナレーションのもともとの語義である。それゆえ、古典的な語り芸を持つ声優が売れているのは、ある意味もっともなことかもしれない。
 
もう一つ、声優ナレーションの現代の流れとして、アニメのキャラクターボイスでの表現がテレビで流行し始めている。説得力という点では問題があるにせよ、キャラクターボイスは「注意を引く」「カラーを決める」読みということではテレビ的に効果がある表現である。子どもの頃から親しんだ特徴的な声には、引きつけられる要素があるからだ。
 
しかし、声優教育ではなぜかアニメ的な表現は軽視され、見下されている。「変な声さえ出せばそれが表現だと思ってるのか」とは 某大御所声優の弁である。そのような評価は残念だ。アニメの表現は、声優たちが編み出した、異世界で非日常の表現なのだ。
 
 声優の教育は、今も演劇による舞台教育が主流だ。肉体と言葉をつなぐこと。それはそれで表現として重要ではある。しかし声優教育は戦後の新劇を引きずったまま、そこから抜け出せていない。新劇的リアリズム表現も、表現の中で大きな柱ではある。ただ、いまだにテキストが民話や昔話だったりするのは困りものだ。古典を学ぶことを否定するわけではないが、戦後リアリズム表現と現代演劇の目指す地平との距離は遠い。同じく現代のテレビ表現と時代のずれを感じることもしばしばだ。声優教育は進化のサイクルから離れ、もう一つのガラパゴスにいて孤立しているように思える。
 
 声優志望者もナレーションを学び、トップナレーターたちの喋りを習得しようと励んでいる。それなのに、多くの教室ではそんな読みは全否定されている。肝心の講師がそれを評価できないからだ。番組を注意深く見ていないだろうし、今のナレーションも意識してないからだ。そんなことで時代が求める表現を伝えられるのだろうか?つまりは今の現場で活かせない表現や技術を教室で学ばせられているのだ。声優教育も、独自のアニメ表現を包括した教育を再構築すべきである。それがナレーションと声優をつなぎ、その表現をもっと豊かにするだろう。
 


芸人や俳優という読み手を使うこと


 
現代のナレーションは、時代変化やメディアの変化とともに進化してきた。古典の語り芸、落語や講談、客観性を持つアナウンス。英語まじりのDJスタイル、ハスキーボイス、アニメからのキャラクターボイス。そして絶叫とささやき(ウィスパー)の表現が生まれてきた。
録音再生技術の向上もあって、ナレーション表現は映像とともに貪欲に新しい表現を求め、テレビ番組のるつぼの中でそれぞれを融合し、「新しい声の表現」として変化し続けてきた。日本が80年代以降、笑いの時代に突入し、バラエティ全盛となったことがそれを後押ししてきたといえる。大量の原稿を即座に読み込み、張りながら、巻き巻きで、的確に映像に合わせて必要な情報を伝えていく。そしてウイットとエスプリを番組に添える。情報・バラエティ番組は「説得力」「カラーを決める」「注意を引く」の3つの高度なテクニックを要求される、ナレーターにとって檜舞台だ。
 
最近は大型番組から深夜バラエティまで、芸人の活躍が目立ってきた。それらはうなるほど上手かったり、まだまだ文章を読むという行為に慣れてなかったり、キャラも喋りもさまざまだが、逆に慣れていないこともまた新鮮だったりする。笑いの独自文化を築き、熾烈な戦いを生き残ってきた芸人たちは、そのキャラクターを生かした喋りと声が武器である。作り手は見事にそれを生かしていると言える。ナレーターたちも専門家として、それらの表現に負けないように精進しなければいけない。
 
俳優の読みについても一言。元来、俳優がナレーションをするのは真っ当なことである。存在感や声の魅力、説得力、ナチュラルな表現はさすがである。しかし、それはレギュラーでナレーションに携わっている少数の俳優だ。ポンとキャスティングされた多くの俳優は、長文を即座に読みこなすのに悪戦苦闘していることが、その語りから伝わってしまう。表現の手法も、モノローグ的な坦々と(または淡々と)した語り一辺倒だ。坦々とした表現は禅に通じる日本的な価値観だとは思う。しかしながら、手っ取り早く俳優の声を収録するには、その表現しかないといったところが実際ではないだろうか。BSの旅ものやドキュメントで、それは顕著である。それでも聞かせることができるかはその人の力量と言ってしまえばそれまでだが、もうひと工夫あっていいのではないだろうか。
 
キャスティングで視聴層を広げようとする試みはもっともなこと。しかし、いかんせん俳優の魅力や能力を生かしきれていない。安直な作りは勘弁してほしい。そして、俳優たちも真剣にナレーション表現に取り組んでほしい。大型ドキュメント番組で有名俳優がボソボソと読みながら、滑舌がボロボロだったりすると悲しくなってくる。例外としてNHK「サラメシ」の中井貴一は俳優としての表現だけにとどまらず、今のナレーションをしっかり研究しているように聞こえる。これはテキストや演出と、うまくコラボレーションができているからだろうか。
 

次回「ナレーション論(後編)」は
『テレビは本来の”毒”を忘れるな』と現場への提言。

 

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